
2.事例と分析
吉本(1992:107—108)では、「指示を直接指示と間接指示とに分ける」とし、「直接指示とは指示物が外界,出来事記憶,または談話記憶を参照して同定される場合である」のに対し、「間接指示とは指示物が長期記憶を参照して同定される場合である」と定義している。そして、直接指示は、さらに「現場指示(deixis)」と「文脈指示(anaphora)」とに分けている。現場指示とは「指示物の同定が外界または出来事記憶にもとづいて行われる場合である。文脈指示とは指示物の同定が談話記憶にもとづいて行われる場合である」(吉本1992:109)。金水·田窪(1992:127—128)は、「日本語の指示詞の場合,要素探索に関する語彙的特徴としては,話し手から要素までの心理的距離を指定する,ということが挙げられよう。」「コで話し手の近くにある要素を指し示せ」、「聞き手側の要素をソで指し示せ」といった特徴を有すると指摘し、「こ」と「そ」の違いを明らかにしている。
一方、木村(1997:185—187)では、現場指示における中国語と日本語との非対応について、次の例を挙げて解釈している。
(7)[8]と(8)では,相手の手にあるものが指示対象とされているが,いずれの場合も,その対象が話し手の手にも届く範囲の至近距離にあるところから,“这”が用いられている。
(7)赛金刚:“喂,拿酒来!”(把乙抱着的食盒轻轻夺过来)
乙:“这,这是敬神的食盒。”(『赛金刚盛衰记』)
おんにょろ:やい,酒ェよこせ。(二の重箱を軽くひったくる)
二:そ,そらア,ま,祭りの重ね鉢だが。(『おんにょろ盛衰記』)
(8)(呱先生默不作声,取出一封信来看。)
戈洛(注意到送封信):“啊哟,这是什么?(把信抢过来)真不讲理!真不讲理!”
呱先生:“从这封信来看,你和休勒的关系也许是那个肉体一不,精神恋愛,可是,在相当程度上……”(『蛙升天』)
ガー氏:(黙って手紙をとり出して読んでいる)
ケロ:(気がついて)あらっ!やっぱり!(手紙を引ったくって)ひどいわ,ひどいわ!
ガー氏:それで見るとだな,お前とシュレとは,その何だ,肉体ープラトニック·ラブであったかも知れんけれどもだな,しかし相当程度に。(『蛙昇天』)
以上の先行説からも分かるように、日本語の指示詞は、話し手の心理的距離と関係している。本研究では、心理的距離のことを文化的な心理的距離と名付け、指示物が話し手と聞き手のどちらの縄張りに属するかは話し手自身の判断によってなされるものとする。物理的な距離は、言語が異なっても、共通するところが多いが、文化的な心理的距離は、言語によってかなり異なってくる。木村(1997)が挙げた用例からも分かるように、日本語の指示詞のルールは、必ずしも中国語には適用されない。むしろ、中国語に適用できない場合が多いと言えよう。日本語の指示詞と中国語の指示詞との違いについて、木村(1997:185—187)は「日本語なら,自分が手に持っているものや身につけているものは「コ」で指し,相手はこれを「ソ」で指すといった使い分けが自然だと感じられる状況でも,中国語では双方共に“这”を用いることが珍しくない。」「ここでの対象は,先の(7)や(8)ほど至近距離にあるわけではなく,物理的な距離としては明らかに,話し手よりも聞き手の方が近い位置にあるが,それが話し手自身の衣服であることから,自分の領域に属するもの,すなわち自分に近いものと認識され,“这”が用いられているものと理解される。日本語では,話し手と聞き手の,対象に対する物理的な距離の差が指示詞の使い分けに大きく関与し,上のような状況では,対象が聞き手の領域に属するものであることを「ソ」系列の指示詞によって明示する必要が感じられるが,ワレの領域に対立してナレの領域というものをマークする指示形式を特に持ち合わせていない中国語では,対象が自分にとって遠い存在だと認識されない限り,近称の“这”で指されてよいということである。」と述べている。
ウチとソトといった概念を用いて説明を試みたのが牧野(1996)である。牧野(1996:80—88)では、神尾(1979)の「情報の縄張り(information territory)理論」について、「まさにコ、ソ、アの機能にぴったりです。話し手と聞き手の縄張りが交差していてコを使う場合も、共通体験をアで指す場合も、上のA[9]に対応します。ソは、情報が話し手になくて聞き手側にあるのですから、Bの場合に相当します。話し手の側に情報があって聞き手の側にない場合はコで、Cに対応します。「あれ、何ですか。」といって、話し手も聞き手も知らない場合はアがDに対応するのだと思われます。」と述べている。しかし、コとソが如何にしてウチとソトに関わっているかといった詳細については、言及されていない。しかも、情報が話し手か聞き手のどちらにあるという基準だけでは、以下の(9)と(10)における「これ」と「それ」との交替現象は説明できない。
中国語母語話者日本語学習者の指示詞の誤用例を見てみよう。
(6)李さんと私はともだちです、昨日は李さんの誕生日でした。私は友人と四人でレストランで昼食を食べました。<それ→これ>は私たちの公園であそんでいる写真です。(学部1年生/学習歴3ヶ月/滞日0)
(6)は現場指示である。文法的には、「それ」を使っても「これ」を使ってもいずれも成り立つ。つまり、写真が話し手の近くにない場合は「それ」を、話し手の近くにある場合は「これ」を使い、写真と話し手の物理的な距離によって「それ」と「これ」の二者択一になるのである。しかし、次のような用法もよく見られる。
(7)ドアの前に立つと、和佳子はマスターキーを鍵穴に差し込んだ。指先が震えていて、かちかちと金属音が鳴った。がちゃりと鍵が外れるのを聞き、深呼吸をしてからゆっくりとドアを開けた。室内はさほど散らかっていなかった。二つあるベッドの片方は、まるで使われた様子がない。ボストンバッグは部屋の隅に寄せられ、備え付けのテーブル上にノートパソコンが置いてあった。和佳子はおそるおそるバッグを開いた。中には簡単な着替えや洗面具などが入っていた。手帳や身分証明書の類は見当たらない。彼女の目がパソコンに向いた。これを使って写真の修復をしてくれたのだなと思った。そのことを考えると、こんなことをしていることが後ろめたくなった。(東野圭吾『さまよう刃』)[10]
和佳子は、バックを開いて、中を調べたが、手帳や身分証明書の類は見当たらないため、目がパソコンに向いた。パソコンは距離的には必ずしも近距離というわけではないが、「これ」が使われている。日本語の教科書であれば、「それ」を使うのではないかと、日本語学習者は思うかもしれない。その続きの「そのことを考えると、こんなことをしていることが後ろめたくなった」においては、「そのこと」は明らかに「これを使って写真の修復をしてくれた」を指しているにもかかわらず、「これ」ではなく、「それ」が使われている。これもまた日本語学習者が理解しにくい用法である。そのあとは、また「こんなこと」のように「コ」に変わる。パソコンを「これ」で指示するのは、そのパソコンと話し手との物理的な距離を明示するためではなく、そのパソコンを使って修復した写真は和佳子の写真なので、和佳子とはウチの関係にあるということを示すためである。それに対し、「そのことを考えると」における「そのこと」は、写真修復を行った人の修復作業を指示するものである。写真修復は和佳子の行為ではなく、作業者の行為なので、「そのこと」の方が指示物の行為が和佳子とはウチの関係ではなく、ソトの関係にあるということがわかる。
(8)近日中に私は連邦議会に予算案を提出する。これらを私は米国の未来のための青写真と考える。予算案ですべての問題が解決されるわけではない。1兆ドルの赤字や金融危機、景気後退という厳しい現実を反映している。(『毎日新聞』2009年)
(8)における「これら」は、「予算案」を指示するものである。「予算案」は、まだ提出されていないので、話し手の所有物であり、話し手の縄張りにある。提出済み、話し手の手元にない場合は、(9)のように、「これ」ではなく「それ」が使われる。これは、案が提出者の縄張りになく、相手の縄張りにあるからである。
(9)今回の素案、年金改革案は、皆さんの素案を見ますと、その中身は、我々がこれまで提案してきた現行制度の改革案そのものなんですね。つまり、素案の中に改革案を示した、それは我々がこれまで提案してきた現行制度を前提とした改革案である。(『衆議院第180回予算委員会』)
また、以下のように、「これ」と「それ」の使い分けが、話し手の指示物に対する捉え方の違いを端的に表す。
(10)職は失わなかったけれども、会社をかえなきゃならない、同僚を離れて、また新しい人間関係の中に入っていかなきゃならない、これはやはり悩みであり痛みであると思います。(『衆議院第156回予算委員会』)
(11)だから、もっと国民的に、自分の子供という立場で、やっぱり、もう足かけ三十年ですから、考え直すときが来ていると思うんですよ。そうでないと、いまのあなたがお読みになったのは、それはおとなの悩みですよ、ほんとうに。(『参議院第072回予算委員会』)
(10)と(11)はいずれも「NPは+悩みだ」という構文であり、文脈指示である。NPに「これ」と「それ」のどちらを使っても文法的には成り立つ。「これ」と「それ」のいずれを選択するかは、話し手の指示物の捉え方、つまりウチの関係にある指示物として捉えるかソトの関係にある指示物として捉えるかということに関係する。「これ」を使うと、ウチの関係にある指示物として捉え、仲間意識や親近感を持ちやすいのに対し、「それ」を使うと、ソトの関係にある指示物として捉え、一定の距離感を置き、客観的に物事を述べる感が強いということになる。中国語母語話者日本語学習者の「これ」と「それ」の誤用はほとんどがこれに該当する。例えば、
(12)私の悩みはどんな女性にもあると思います。<これ→それ>は自分の体型と容貌に不満があるという悩みです。(学部生3年/学習歴2年/滞日0)
(13)外国人にとって、自分の母語以外のことばの勉強は大変だ。<これ→それ>はただことばの勉強だけでなく、その国の文化の勉強でもある。(学部3年生/学習歴2年半/滞日0)
(12)において、指示詞で指示する「悩み」はウチの関係にある「私」のものではなく、すべての女性が共有するもの、つまりソトの関係にあるものであるので、「これ」は使わない。(13)における指示詞も、話し手のウチの関係にある「勉強」のことではなく、ソトの関係にある「勉強」を指示するものなので、ウチの情報としては扱いにくい。従って、(13)も「これ」を使うことができない。ウチとソトの関係をはっきりと示したいならば、「こっち」と「そっち」を用いて表す。(14)と(15)その例である。
(14)そっちはそっちで自己責任でやってください。(『衆議院第136回予算委員会』)
(15)こっちはこっちの立場を主張すればいいのです。(『衆議院第072回予算委員会』)
(14)の「そっちはそっち」と(15)の「こっちはこっち」は、いずれも中国語の“那里是那里”と“这里是这里”または“那是那”と“这是这”で表現できず、“你是你”と“我是我” [11]のような言い方をすることになる。例えば、
(16)你是你,我是我(あなたはあなた、私は私),若是你硬那么着,我能有什么办法。(李方立《初春的一天》)[12]
(17)我实话告诉了你,我是看在大嫂份上才把这些告诉你。我手里提着我脑袋呢。我恨你们,我干爹说了私仇不用公报我才来了。明日再见了面,你是你我是我(おまえはおまえ、おれはおれ),对得起你们了。(王旭烽《茶人三部曲》)
従って、(18)のように、日本語ではウチの関係かソトの関係かを明示する用法になるが、中国語では表現できないこともある。
(18)とは言え、女を完全に許したわけでも、むろんない。それはそれ、これはこれと、一応区別しているだけのことである。(安部公房『砂の女』)/然而,他当然不会完全原谅女人。钉是钉,铆是铆(釘は釘、リベットはリベット),大致得有个区别。(日本語文と訳文はいずれも《中日对译语料库》[13]から引用)
次の(19)は(3)の再掲であるが、ウチの関係かソトの関係かを示す好例であろう。
(19)この夏休み、となりのおばさんの親戚が遊びに来た。この親戚の子供が日本生まれで日本育ちなので、全然中国語が話せない。しかも勉強したくなく、日本だけがいいと思っている。「仕方がない。」とこの子の親が言った。(学部3年生/学習歴3年/滞日0)(用例(3)の再掲)
(19)の指示詞は文脈指示の用法である。「親戚」は、ソトの人の親戚であって、ウチの親戚ではない。ソトの人の親戚の子供もソトの人なので、「その」で表すのが日本語的である。「親」も同じである。しかし、「コ」がまったく使えないというわけではない。例えば、
(20)この小屋には、同じ組の二宮君と三木君が一番よく遊びに来た。この二人も、そうとうなアマチュアであった。隆夫の方はほとんどこの小屋から出なかった。友だちのところを訪れることも、まれであった。(海野十三『霊魂第十号の秘密』)
指示物が話し手のウチの関係にあるとすれば、むしろ「コ」の方が自然であろう。「二宮君と三木君」を「この」で表現するのは、話し手がウチの人として見なしているからであろう。従って、次の(21)においては、「その」を「この」にすることができない。
(21)ある晩、国の方の人が私の夢に来た。その人は私の旧い住居が信州の小諸の馬場裏にあつた頃に隣家に住んで居た伊東さんといふ人だ。(島崎藤村『エトランゼエ』)
夢の中に現れてきた人なので、話し手がその夢の中の人をウチの関係にある人とするのはなかなか無理があり、ソトの人と見なす方が自然であろう。ソトの人である以上、「コ」は使えない。
要するに、物理的な距離を示す場合には、日本語の指示詞と中国語の指示詞とでそれほど大きな違いがあるというわけではないが[14]、文化的な心理的距離[15]即ち指示物をどう扱うか、どちらの情報縄張りに属するか、また属させるかとなると、日本語の指示詞と中国語の指示詞とでは大きく異なるのである。